「学ぶ」〜大学院に入学してみた

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セカンドキャリア、セカンドライフの成功の原則は、下記の4つですが、今日は、2の学ぶに関することで、私が50歳を過ぎて、大学(院)生に戻った経験について、お話したいと思います。

真の自分を発見し、真の自分になる(自分の使命を知る)
学ぶ
コミュニティとの繋がりをつくる
コミュニケーション、リーダーシップを実践する
40代のころから、人生の意味は何なのか、死んだらどうなるのか、死ぬときはどんな気持ちになるのか、ああでもない、こうでもないと考えていました。50歳くらいになったら、仏教とか死生観に関する思想とかを、大学に入り直して勉強してみたいなあと夢想していました。

たとえば、シンガーソングライターの小椋佳さんが、50歳くらいで母校東大に入り直して(法学部出身)、学部、大学院で哲学を学んだという話もありました。

また、直木賞作家である、五木寛之さんも、48歳で2回目となる休筆に入った際に、京都にある龍谷大学の聴講生になり、親鸞について学んだということはよく知られています。

私の場合は、東日本大震災の翌年に、東北大学・文学研究科(大学院)で始められた、遺族の心のケアをする宗教者(臨床宗教師)の活動に参加したいと思い、東京での仕事を辞めて、2年間の予定で、大学院に通うことになったのです。

研究室で、休み時間に宗教学専攻の学生たちと話していると、ちょうど、自分がこの子達の親の年代であることに気づいて、ある種の感慨を覚えましたが、やはり、純粋で、フレッシュな感性に触れ合うことで、楽しい時間を過ごすことができました。

また、私は大学の時に論文も書いたことがなかったので、研究室で、大学院生が、準備している論文について発表し、皆がフィードバックする場という貴重な体験でしたし、論文というものが、定義された言葉を使って、ある事柄を証明し、過去の業績にあたらしい何かを追加するという特殊な形式のものであることを発見して面白かったです。

学ぶということは、私のとって、かけがいのない充実した時間でした。

自分の興味のあることを学び、考えるのは本当に楽しいです。

私にとっては、法律、経営、会計といったビジネス実務に関する「役にたつ」知識を学ぶことより、宗教学がそのフィールドとする、死生観のような、言わば、役にたたない学問のほうが、人生そのものには役に立つように思われます。

大学を聴講するのも一案ですが、学生になると、他の学生のみなさんや、先生方、研究者のみなさんともおつきあいができて、また一層深い学びになることうけあいです。

 

私の場合は、東京での仕事をやめて、仙台に移住して、東北大学に入学したのですが、もうひとつ合格した東京の私立大学に、働きながら通うという選択もありました。

大学で学位をとるとしても、夜間や、週末に授業を受けられるところもあります。

フルタイムで学ぶか、パートタイムで学ぶかは、経済的な事情などもあるでしょうから、どちらが良いかは一概には言えませんが、私の場合には、どっぷり2年間、100パーセント学生としての生活を送ろうと決意した次第です。

フルタイムか、そうでないかよりも、やはり何を学ぶかが大切だと思います。

大学の研究テーマとしては、「死生学」に関することを決めましたが、同時に、先に述べた「臨床宗教師』という心のケアをする宗教者を育てるという日本でも先進的な取り組みに参加したいという思いでした。

大学外で実践的に学んだこと

入学前には、予想もしていなかったのは、臨床宗教師の育成プログラムのお手伝いをする中で、多くの、おそらく100人くらいの宗教者の皆さん、多くは僧侶の方ですが、他にも、キリスト教など様々な宗教者の皆さんと、接してお話をする機会をたくさん持てたということです。

僧侶のみなさんは、仏教の様々な宗派に属しており、その教義、しきたりも大いに違うことを目の当たりにしましたが、同時に、何とか人のために、人を助けたいという思いを思いを持っておられて、宗派を超えた連帯もありました。

また、キリスト教の牧師、シスターの人を思いやる温かさ、新宗教の教師のみなさんが、日々悩み相談をされて多くの人の支えになっていることなど、宗教者の皆様の社会における貢献には頭が下がる思いでした。

大学の座学で学んだこと

授業では、オーソドックスな宗教に関すること以外に、遺族に対する「グリーフ・ケア学」、末期患者への「スピリチュアル・ケア」といったカウンセリング、心理学に関連する分野の授業を受講しました。

これらは、私の最大関心事である「死生学」に関連するものでもあり、また、「臨床宗教師」が実際に遺族や患者に接する場合に必要な知識でもあります。

グリーフケアについては、私自身が入学前年に自分の子供と死別しており、東日本大震災の遺族の方の気持ちを理解すると同時に、自分がどうこのことと向合っていくべきかを考える貴重な時間でした。

死別とは「喪失」体験のひとつであり、人は、どんな人も人生において段階的に死別も含めた「喪失」体験せざるを得ない。病気になることは健康を失うことであり、リストラは仕事を失うこと、離婚は配偶者を失うこと。死別は特にショックが大きいですが、他の喪失も決して小さいものではなく、人はそれに向合い、回復するプロセスを踏んでいくのです。

一方、スピリチュアル・ケアは、生きている本人が死に直面するという苦しみに対処する方法です。

具体的には、ガンの宣告、余命宣告、ホスピス、末期治療の段階で、本人の死=自己消滅=の恐怖に対して心のケアをするという大変難しい仕事です。

大変恥ずかしい話ですが、私は子供をなくした時、2、3日悲しみの中にいましたが、その後、自分自身の死に対して、言いようのない恐怖を感じ、それが数日続きました。日頃考えていない、しかし、近い将来自分にも必ず訪れる「死」というのが、現実味をもったからかもしれません。

ですから、このスピリチュアル・ケアと、グリーフケアという死にいく本人と残された遺族という対立軸ではなく、死(死生学)を考える上で、同じ土俵にあるものと自分の中では腑に落ちました。

宗教学と実践宗教学の違い

私が東北大で入学したのは、宗教学研究室というところでしたが、臨床宗教師(心のケアをする宗教者)の育成プログラムの開発、実施は、「実践宗教学寄附講座」という別の組織が行っていました。

実際、宗教学と臨床宗教師育成というのは、一見近そうで、かなりかけ離れた世界だと感じました。

宗教学というと、おそらく皆さんは、仏教、キリスト教、その他の宗教について研究する学問だと思われているでしょうが、そういった個別具体的は研究は、神学と言って、私立の宗派系大学、キリスト教系大学で行われているのもです。

東北大をはじめ、国公立大学では、宗教学は、宗教だけではなくて、人が信じる対象一般について、価値中立的に研究するもので、社会学、民俗学、文化人類学に近いイメージでした。仏教の原典をサンスクリット語、パーリ語で読むのは、インド哲学という別の研究室で、宗教学というのは、(特に、国公立大では)思想的なもの、哲学的なアプローチの研究は少ないように思いました。

一方で、「実践宗教学寄附講座」のほうは、何しろ、実際に死に向かっている末期の患者、子供や親、配偶者を亡くした遺族を相手に、寄り添い、支えるという重要な役割りを果たす宗教者兼カウンセラーを育成するのが目的ですから、まさに「実践的」な内容になります。

もちろん、グリーフケア、スピリチュアルケア、カウンセリング技法、緩和ケア医療についての知識を学ぶことが大切ですが、個人個人が現場で、経験を積みながら、人に寄り添って、回復のための、あるいは、死を受け入れるためのサポートができるように育成するのです。

このように、大学院生としては、宗教学の研究室で、ある意味抽象的な「宗教学」を学びながら、「実践宗教学」で、臨床宗教師の育成プログラム運営のお手伝いをしながら、多くの宗教者の方と交流し、被災地をまわるというバランスのとれた経験ができたました。

生まれて初めて「論文」を書く

修士論文では、臨床宗教師の育成プログラム運営を通じて、お知り合いになった宗教者の皆さん20人ほどに協力を戴いて、お一人、約2時間ずつのインタビューを基に、その宗教観、死生観、死後の世界を信じるか、宗教者になった動機、東日本大震災との関わりなどから、日本における臨床宗教師の広がりの可能性について書きました。

ほとんどの宗教者のみなさんが、神様なり仏様の存在を、死後の世界と同じく信じていることと、震災に際して、地元であるか否かによらず、宗教者として何かできることがないかと、すぐに行動されていることに感銘をうけました。

修士論文を年内(12月)に提出し、翌年の口頭試問も無事に終了して、2年間で修士を取得できましたが、結構大変でした。最初の1年は、授業を取らなければならないので、実際に論文のためにリサーチを始めるのは2年になる前の春休みから、提出はその年の12月ですから、実質的には1年ありません。担当して戴いた先生からは、「以前、宗教学に入学した、作家の内館牧子さんは、1年延長して、みっちり論文を書き上げたから、加藤さんも1年延ばしたら?」とよく脅され?ました。

それにしても、社会人の書くビジネス文書(提案書にせよ、報告書にせよ)と、アカデミックの世界の論文のプロトコルは、こんなに違うのかと本当に驚きました。大学の論文は、正確さがなにより要求されること、大きな飛躍、全く新しい知見よりも、小さくても、いままである論文に付け加えるような価値のあることを、論理的に書くということが重視されます。

たとえば、日本の地域で、八地方区分というのがあり、出身県の分類において、近畿地方と関西という言い方を混同したり、中部地方と北陸を併存させたりしたことを注意されて、アカデミックな論文では、そこまで厳密に書くのかと驚きました。先生も、論文に「間違い」を書いては絶対いけないと常々おしゃっていたので、「ウソからでたマコト」でプロジェクトや企画を通すビジネス提案書とは全く異なる世界だと思いましたが、学問する学者の方の倫理観としては素晴らしいとも思いました。

あとは、教授が引用する理論が、時に、古過ぎることにも衝撃を受けました。

たとえば、マーケティングの「イノベーター理論」(1962年、スタンフォード大のロジャーズ教授による)という消費者の商品購入モデルが出て来たときには、よくご存知だとなあと関心もしましたが、50年も前の理論が今、授業で言及されるとは!もちろん、マーケティング理論はあまり進化しないと米国ビジネススクールの教授も言っていまし、もちろん、この理論の妥当性は問題ありません。